月別アーカイブ: 2016年3月

景色が違って見えるほど

母とサンダーと近所をぶらぶら。
お気に入りの緑の並木道は、
この時期は、お花の並木道です。
母の「お花の実況中継」を背中に聴きながら歩きます。

見上げるとこぶしの花が咲いて、桜も満開よ。
振り向くと雪柳が、侘助も咲いてるわ。
スイートピーが香ってるでしょう。
目線を下ろすとスミレとシロツメクサと、
タンポポとイヌノフグリが咲いてるよ。
…上から下までお花の季節だねー!

「ほんの何日か通らなかっただけで、
こんなに景色が違うなんてねぇ」
と母は言います。
一斉に咲いたのね。
景色が違って見えるほどに。

年度末と年度始めで、
お忙しい方もおられることでしょう。
お花も移り変わるめまぐるしい季節です。

ゆく年度末

待ちに待った四月である。
冬から春に、道路工事が増える年度末。
道路工事現場を歩くのは怖い。やだなぁ。
私とサンダーは、アイメイト協会の歩行訓練で、
道路工事現場を歩く実地訓練はバッチリしているけれど。
なにせ視覚障害者に工事現場は難所なのである。

私にはサンダーと歩くご近所ルートがいくつかあって、
5つの一時間コースと、4つの30分コースを組み合わせて歩くのだが、
年末から年度末にかけて、いづれかのルートで工事をしていた。
現場の人に聞いても、いつどこで工事がはじまるのか知らないという。
んむむ。
「行けばわかるさ」、なのね。

もちろん、道路の工事現場には警備の方がいらっしゃるのだが、
視覚障害者の誘導やサポートに慣れている人とは限らない。
初めて視覚障害者と接する人や、
どうしていいのか分からない人もいて、
咄嗟に背中を押されて、私は怖い思いをしたり、
不意に手を引っ張られて転んだりもした。

オーライ、そんな時は
「こうして欲しい」とお願いすると、
次の日にはバッチリ誘導してもらえるようになる。
何日かすると、お互いに余裕がでて、
ちょっとした顔なじみみたいになったりもする。

ちなみにサポートの仕方が分からないときは、
「どうサポートしたらいいですか?」と、
まず聞いてみるのがいちばんスマート。

なにはともあれ、道路工事が多いシーズンが終わる。
うれしいなぁー!
道路はきれいになっているし。
八熊通りの歩道はレイアウトが変わり、さらに広くなった。
寒い季節の工事、工事の方と警備の方、ご苦労さまでした。
(私も、ご苦労さまでした)

20年後の私は

どうしているのだろう?
いま、ボーダーのバスクシャツを新調しようとしているのだ。
フランスの超定番のボーダーシャツは、長く着込むほどに味が出て肌に馴染む。
10年20年は着る人がいるくらい丈夫で、
実際、私は20年ぶりに、このボーダーシャツを新調するのだった。
…私は20年後にも袖を通しているだろうか?

ふと父のポロシャツを思い出す。
亡くなる年の父の日に、私が贈ったものだ。
「おー、いいねぇ! これは来年の夏に着よう」
と父は、タンスの奥に仕舞い込んだ。
そしてポロシャツに袖を通すことなく、その秋唐突に亡くなったのだった。

「百歳まで歩く」という本を愛読し、
百歳まで生きて歩く気マンマンだった父は、
25年も前倒ししてしまうとは思っていなかったに違いない。

20年後もだけど、
今の自分を大事にだよなぁ…。
長い付き合いになる相棒シャツを選びながら、
思ったのでした。

そちらの眺めはいかが?

昨日は春分の日。
南半球をより照らしていた陽が、
これから北半球をより照らすようになる。
植物だったら、
秋分からは冬眠ホルモンが増え、
春分からは生育ホルモンが増えるという。

彼岸の時期は昼と夜が半々なので、
あの世とこの世が近くなるとも言う。
彼岸は、あの世の展望台からアチラの方々が、
「おー、どれどれ」と眺めているんだよ、
なんて例え話を、本で読んだことがあった。

それから私は、彼岸シーズンになると、
父や爺ちゃんや婆ちゃんや、飼っていた猫やインコが、
あの世の展望台で、
のどかにピクニックをしている光景が思い浮かぶようになって、
ちょっと楽しい。
(やっぱり、おはぎ?)

愛猫のんちゃん

今日は、のんちゃんの命日である。
白に黒のポイント柄、黒い尻尾は太く真っ直ぐで、
鳴き声のキュートな、ツンデレな美猫であった。

金魚やインコは飼ったことがあったが、初めての犬猫である。
あまりの可愛さに、高校生だった私の成績は急降下、
その後の進路を変えた運命の猫である。
…というのは言いがかりだが、
すっかり猫というものに夢中になってしまったことは確かである。

よくある話だが、
姉と私がもらってきた猫だけど、完全に母の猫になっていた。
自分の子どもにはあまり干渉しない母だが、
意外や、のんちゃんにはメロメロの過剰な愛を注ぎ、
これが「猫かわいがり」というものかと、私は思ったのだった。
のんちゃんの顔にはよく、母のキスマークがペイントされていた。

のんちゃんは18年の天寿を全うした。
わたしたち姉妹が学生から社会人になり、家を出て暮らし、
姉の結婚と出産、父が単身赴任し定年を迎え、私の闘病と、
のんちゃんは家族の歴史の変動期を共にしていたのだ。

のんちゃん亡き後、家族の「のんっちゃんロス」は大変なものだった。
北関東に住む姉はオイオイ泣き、
もちろん私も泣き暮らす日々が続いた。
父は父なりに寂しがっていた。
とくに母は、のんちゃんと二人きりで生活する時期があったので尚更だ。

母は、サンダーが来た当初、
しばしばサンダーのことを、「のんちゃん」と言いまつがっていた。
死んでから何年もたつのにね、と、サンダーに詫びていたものだ。

たしか、大島弓子先生のマンガに、
同じように先代の名前を新入りに呼んでしまい、詫びるのだけれども、
「次にやってくる猫は幸せだ。亡き先代の分も愛される」と気づく話があった。
サンダーは猫ではないけれど、
きっとそういうことなのだろう。

さすがにアイメイトのサンダーには、
のんちゃんのように「猫かわいがり」しなくなった母だが、
私のことが羨ましくて仕方ないと言う。
「そんなにサンダーに愛されていいわねー。」

…お言葉であるが、
アナタ、のんちゃんの愛情を一身にだったではないですか。

春は「隠れ脱水」に気をつけて/欲求を勘違い?

ここ数日、身体のコリや倦怠感が気になっていた私。
ふと喉が渇いていることに気がついて、
ようやく「水が足りていなかったんだ」と分かったのでした。
お茶やコーヒーは飲んでいるけど、水を飲んでいなかったな。

気温の変動で「隠れ脱水」になりやすい春。
身体以上に水が大切なのは脳。
水の不足は、身体だけでなく精神的な疲れの原因にもなります。

疲れを感じた時、甘いものに手を伸ばしたくなるものですが、
もしかしたら、水が不足しているのかもしれません。
本当は水の不足で、身体は水を求めているのに、
空腹感と勘違いすることもあるとか。

私たちは「身体の声」をないがしろにしがちです。
そして、本当に求めている欲求を「勘違い」しやすいのですね。

今日、3月17日から春の彼岸入りです。
「光の春」、「音の春」と春は進み、
彼岸明けから、いよいよ「気温の春」のはじまりです。
ここのところの寒さで、桜の開花が早まるのかな?

見ているだけで走った気分になるのはなぜか?

母が先週の名古屋ウイメンズマラソンへ。
もちろん沿道の応援にである。
母は名古屋ウイメンズに毎年出かけているので、
母なりのビューポイントは心得ているようだ。

私は間近に世界トップレベルのマラソンランナーを見たことがない。
母が言うには、
「すごく速い。見てるだけで走った気分」なのだそうだ。
そして、自分が完走してきたかのように、お疲れで帰ってきたのだった。

「Frontiers in Autonomic Neuroscience」に掲載された論文によると、
他の人が運動する様子を見ると、
まるで自分自身が運動をしているかのように、
心拍数などの生理的指標が上昇することが研究で分かっている。

また、感情に関しての調査でも、結果が一致するのだとか。
つまり、感情をかきたてられる映像を見ると、
交感神経活動が刺激されて、発汗が促されることが分かっている。
(フムフムより・これは、テレビやネット画像でも気をつけたいものですね。)

しかし、運動の映像を見たからといって
実際の運動効果に匹敵はしない、とも述べている。
そして「ソファから腰を上げることの健康効果に代わり得るものはない」と。
*以上、「Frontiers in Autonomic Neuroscience」に掲載された論文より

やはり、実際に運動するに越したことはないのね。
運動ができる年代や、動ける身体は本当に貴重なのだ。
さて、ソファから腰をあげて、
サンダーと歩きにいくとしよう。

春先の冷えに気をつけて

昨日の名古屋は冷たい雨。
久しぶりにサンダーの休養日に充てることにした。

冬より春先に、人は身体に冷えを感じるという。
暖かな日もあり、血管が開きつつある時期は、
言ってみれば「むきだしの身体」になっているようなもので、
昨日のように寒さが戻ると、
真冬以上に寒さを感じやすいのだとか。

…むきだしねぇ。
自分が因幡の白うさぎになったような気がして、私は身震いをした。
冬が好きで春先は苦手な理由が分かったような。

サンダーは因幡の白うさぎほどでないにしても、
春の換毛期で被毛が減っている。
春先のほうが寒がり屋さんだわ。
でも、この密着ぶりは悪くないなぁ。

視覚障害になって良さをあらためて知るapple

視力がある頃はmacを使っていた私。
もちろんデザイン性もあったけれど、
単にメカ音痴だったので、
アイコンをクリックするだけでなんとかなるmacしか選択の余地がなかったのだ。

視力が無くなってからは、windowsを使うことになった。
視覚障害者の音声読み上げソフトが、macでは使えないのだ。
パソコンといえば、macしか触ったことがなかった私は、
はじめてwindowsパソコンを買ってきて、
もう、本当にびっくりしてしまった。

え、ノートパソコンって、扇風機が入っているような
ダンボールと発砲スチロールとビニール袋で梱包されているものだったの?
この不細工なアダプターらしきは、もしやパソコンに?
なんでノートパソコンのフタと本体がずれているの?
キーボードのタッチが楽しくないのはなぜ?
スピーカーの音ってこんなに変で、どうして音が割れているの?
もう、「なぜ?」と「どうして?」の嵐。

一番びっくりしたのは、触り心地の違い。
ジョブズは本体はもちろん、パッケージまでも、
「無意識に伝わる」楽しさや心地よさを追及していたのか…。
ああ、またmacが使える日がきますように。

「voice overでi phoneやi padを使えますよ」と、
リハビリセンターの先生が操作を教えてくださったことがあった。
画面タッチ操作、私では日が暮れてしまうよぉ。

視覚障害になって良さをあらためて知る無印良品

目が不自由になってきてから、
無印良品の商品を、より愛用するようになった私。

理由をいくつかあげるとしたら、
家具などは自分で組立ても移動も楽。
家具から小物に到るまで、
サイズやスペックや素材が統一されているので、
部屋の雰囲気がちぐはぐにならないし、視力がなくても整理整頓が楽。
デザインがベーシックで、シンプルで使いやすい。
触り心地が悪くない。

…と、いまさら言うまでもない無印良品の良いところですが、
これが、目の不自由な私の生活には
最大の効力を発揮するのでした。

日本を代表するグラフィックデザイナーで、無印の生みの親の一人、
故・田中一光さんが、無印良品にこめた思想や哲学に、
30年前にデザイン専門学校生だった私は、
どれだけ影響を受けたことか。

しかし、こんなに素晴らしかったなんて、知ってたようで知らなかったかも。
視力が弱くなっていく時、無印の時計の視認性が抜群だったなぁ。

そして嬉しいことは他にもある。
年に四回の無印週間にお店に行くと、
「お久しぶりですね」とか、
「あ、今回もご来店ありがとうございます」と
スタッフさんが声をかけてくれること。
ここでもサンダーは覚えられているのでした。