月別アーカイブ: 2015年9月

サンチャゴ巡礼

いま、友人が叔母上と、スペインをレンタカーで旅しています。

スペインに行きたい叔母上のお供のツアコンとして、旅の計画をしていたとき、
予備知識もなく適当に素敵なホテルを次々に予約していたら、
偶然にもピタリとサンチャゴ巡礼のルートになっていたそうな。
不思議だけど、こんなことってあるよねー。
「星の道」と呼ばれるサンチャゴ巡礼がモチーフの、
パウロ・コエーリョ著「星の巡礼」を思いだしました。

そんな友人から情景が目に浮かぶようなメールをもらったので、
了解を得たうえで、ご紹介します。
地球の上を歩いて移動してきた記憶をもつ魂に…、
なんて大げさかな?

***ここから転載
昨日からいよいよピレネー越えのルートに入りました。

昨日から泊まっているのは、サンチャゴ巡礼の道のスペイン側の最初の村で
ロンセスバーリュスというところ。
修道院の建物が、素敵なホテルになったところに泊まっています。

ホテルとは別に、巡礼の人たちがほぼタダで泊まれる施設もあって、
お遍路さんと同じです。

そして、世界中から現代の巡礼のひとたちが、
徒歩や自転車でどんどんやってくるんだよ~~!

昨日こえをかけた二十歳すぎくらいの女の子3人組はスイスから歩いてきて、
大西洋岸のサンセバスチャンまであと1ヶ月かけて向うそう。
ここからあと800キロあるねん。

メキシコやドイツ、コロンビアから来たという多国籍グループは、
自転車でフランスから一日でピレネーを超えてきたそう。

みんなリュックに巡礼の印の赤い十字架のついたホタテ貝の貝殻をつけています。

ピレネーは白い石灰岩の山ですが、牧場がなだらかに広がって、
写真でしか見たことないけど、アルプスのチロル地方のような
静かなかわいい村ところどころにあって、
その回りに牛や羊も群れがいて、美しいところです。

ガソリンスタンドや写真撮るのに車止めてそとに出ると、
どこからともなくカランカランとカウベルの音がするんだよ!
とってものどかでかわいい音。

晩ご飯にワイン飲んでは爆睡して、叔母も私も元気です。

明日はいよいよフランス側の巡礼道のフランス最後の街、
サンジャンピエドポーに入ります。
***転載おわり

好きの反対は嫌いではなく無関心?②

今回は脳からみる「好きと嫌いは紙一重」のお話です。

認知症の方から、それまでとても可愛がられていた人、心が近かった人は、
「財布を盗んだ」など、妄想の対象になることが時にあります。
また怒りや嫌悪を向けられることも。

脳研究の黒川伊保子さんによると、
好きと嫌いはどちらも、情動を刺激される相手に、
とっさに抱く反応という点で似ている。
しかも脳の中では「好き」と「嫌い」は近い場所であるといいます。

なるほど。しかし、そうは言っても、
理不尽に思える言動を受ける側は、
それまで可愛がられていた分ショックも大きい…。

黒川さんは著書の中で、こうも述べています。
「脳のわずかな誤作動で、
可愛くてしょうがない人に疑心暗鬼を抱くのは当然のように起こりうる。
もしも、あなたの大事な人が認知症になって、
あなたがその大事な人から疑心暗鬼の対象にされたとしたら…。
これは愛されていた照明と思おう。難しいことだが…。」
…なんともせつない。
しかし、これを思うと、また違う視点に立つこともできますね。

心理学でも脳においても、「好きと嫌いは紙一重」。
これは日常のあらゆる人間関係で起きることですよね。
強い情動の振り子は両極に振れてしまいがちで、
そんなやりとりの人間関係は、苦悩とあやうさがあるものです。
(それだけに気づきが大きく、けっして悪いものではありません)
かと言って、一見波風のたたない無関心な関係は、心に充足感がありません。
では、どうしましょう?
コツコツと信頼や敬意で積み上げた関係は、
お互いの心に充足感を与えあい、なかなか揺るぎにくいもの。
揺るがない関係を築く手助けは心理学の「技術」にあります。

*過去記事の
「優しさを伝える技術」、
「コントロールドラマ」、
「オキシトシンを考える」もご覧ください。

(おわり)

好きの反対は嫌いではなく無関心?①

好きの反対は嫌いではなく、無関心である。
よく言われるこの言葉、
どうも釈然としない人は多いでしょう。

言葉の上では、「好き」の反対は「嫌い」ですが、
人の感情はそうではないのです。

大好きだった人が大嫌いになったり、
大嫌いだったひとが大好きになったり。
心理学では、好きと嫌いは紙一重なので、
たとえば、小学生の男の子が、
好きな女子にわざといじわるしたりとか、
そんな意味不明なことが起きてしまうのですね。

好きという感情も、嫌いという感情も、
どちらも強い情動です。
情動がないのが無関心です。
なので、好き(嫌い)の反対は無関心なのですね。

けんかするほど仲がいいなんて言いますけど、
無関心でいられるよりは、
怒られたり嫌われてでも情動を受け取りたいものなのです。
なので、無意識に怒られるようなことや嫌われるようなことをしてしまう。
(詳しくは過去の記事「コントロールドラマ」をご参照ください)
しかし、そんなマイナスな気をひく方法も、やっている本人もしんどいので、
よりよくつきあう方法を学ぶ手助けが心理学です。

(続きます)

Osmanthus

金木犀の花の香りが漂う季節になりました。
甘くて濃厚でありながら、柑橘系のような爽やかさもある芳香は、
心が落ち着き、ノスタルジックな気分にもさせてくれます。

金木犀の花や香りがブレンドされた桂花茶は、
ジャスミンの花の茉莉花茶とともに有名な中国茶です。
金木犀のアロマの効能はリラックスと食欲抑制。
(食欲の秋にぴったり)
白い花の銀木犀は、金木犀よりも控えめで高尚な香りがします。
(金と銀の名づけの妙だなあ)

年々、金木犀の花の香りが「いいなあ」と思えてきます。
というか、金木犀に限らないですね、
季節ごとに咲く花の香りは、
その前の年、そのまた前の年、
そのまたまた前の年の…と、
記憶のカプセル濃度がぎゅっと増す感じ。
香りとともに記憶が立ち上がるのは、
香りが脳にダイレクトに即時に届くからでしょうか。
香りは記憶を開く鍵でもありますね。

ほどよいセンサー

この関東・東北の水害で、
2010年の岐阜県可児の豪雨水害を思いだします。
豪雨で可児川が氾濫し、トラックや車が流され、
お亡くなりになった方、いまだ行方の分からない方もいらっしゃる
激甚指定された災害でした。

当時、私は可児市に住んでおり、とにかく物凄い雨でした。
自宅は高台だったので被害はなかったのですが、
大きな被害のあった地域は、私の出身高校のすぐ近くで、
普段でもよく通る所でした。
のんびりとした可児川が、なんの変哲もない場所が、
こんなことになるなんてと信じられない気持ちでした。

しかし、地方の山や川でキャンプをするときなどは細心の注意をはらうのに、
身近な川は、存在すら忘れかけていた自分にも驚きました。
馴染みすぎてセンサーがオフになっていましたね。
(もちろん、センサーは過敏すぎるのも問題です。)
…と、以前住んでいた可児の水害を思い出しては、
宮城の父母の実家や親戚の無事を祈る昨日だったのでした。

さて、心のセンサー。
無意識からの違和感をキャッチできる、ニュートラルな心の状態が理想ですね。
心が揺れるニュースの多い毎日ですが、
静かな心に照準を合わせるひとときを作りたいものです。

オアシス

こんにちは、フムフムです。
いかがお過ごしですか?

涼しくなってきましたね。
アイメイトのサンダーとの外出も、
時間帯を選ばなくても大丈夫になってきて一安心です。

目に入るものの名前を言いながら歩くと、
認知症の予防になるんだって~!と、
さっそく実践しはじめた母を
うしろに従えてサンダーと歩きます。

「ねむの木、むくげ、猫じゃらし…」
あ、お花と草と木シリーズにしたんだ。
「彼岸花、百日草、サルスベリ、パラボラアンテナ…」
ん? ま、いいか。

お花や木の名前を聞いて、
私の地図にお花と木が加わります。

ふと、サン・テグジュペリの「人間の土地」の一節を
(あれ?「夜間飛行」だったかな?)
思いだしながら歩きました。
郵便飛行機のパイロットだった彼は、
はじめての航路を前に、
ベテランパイロットに教えを乞います。
たしかこんな感じで答えます。
この丘の上には三本の蜜柑の木がある。
傍らの家には農夫と妻が住んでいる。
これは地図に書き記しておきたまえ…。
つまりは長時間のフライトの心のオアシスを教えてくれたのだけれど、
私はなぜだかここ辺りを読むと、
孤高のパイロットと、
見上げる農夫と妻が、
心を通わす様を想像して泣きそうになる。

さて、私の地図には
ささやかなオアシスが増えつつあります。

五輪エンブレムに思うこと

私は全盲なので、
話題の五輪エンブレムは目で見ることはできませんが、
家族や友人に説明してもらって、頭の中で「見る」ことをします。
これはなにも五輪エンブレムに限ったことではなくて、
お洋服や、お店の外観や、人の容姿なども同じですね。

どんな色や図形でどのくらいの長さや幅なのかという「見えるもの」と、
その人が受けるイメージや感情などといった「見えないもの」。
私のような目の見えない者は、
客観的な情報や事実と、
主観的な意味と解釈という
聴いた二つの言葉をミックスして、「見る」のだけれど、
このバランスも、説明してくれる人それぞれなのです。

言葉で伝えるという作業は、
「頭と心」、「知と情」のバランスをとりますね。
(このことは、回を改めて書きたいとおもいます。)

事実の説明の仕方は上手い下手はあっても、
たとえば牛丼が鰻丼になることもなく、だいたい同じですが、
美味しそうとか高級艘とか、あのお店のほうが好きだなとか、
その人の抱くイメージや、経験は、
それぞれに違うんだなあと面白いです。

さて、五輪エンブレム。
友人がこんな風に語ってくれました。
「日本や世界への
願いや祈りのようなものが感じられない」
この友人はデザイン畑の人で、
「デザインで一番時間を費やすのは、
願いや祈りのような見えないものをつかまえること」だと言う。
「その後はデザインが自動的にはまっていくのよ」と。
もちろんデザインの技術や完成度は必須ですが、
まず、「見えない物」が先にあったら、
はたして佐野さんの出る幕はあったでしょうか?

何をないがしろにしてきたのだろう?
私はどうなの?
この騒動は、今の日本の在り方の象徴のような気がします。