月別アーカイブ: 2017年7月

もっと深いところ/皮膚は感情のセンサー?②

肌に合う、肌に合わない、という言葉がある。
なんか気が合うんだとか、これ向いてるとか、ちょっといい感じとか、
理屈をこえて「そうかも」と思える、皮膚感覚ってあるものだ。
頭で考えても、理屈で選ぼうとしても答えが出ない時は、
この皮膚感覚がヒントになる。

人なら接してみて、場所なら立ってみて、何かやってみて、
物なら触って、服なら着てみて「しっくりくる」感覚。

それでもモヤモヤするんだよなーという場合は、
皮膚感覚より深いところがヒントにもなる。
ストンと腑に落ちる、という言葉があるように、
体の内側、「内臓感覚」に聞いてみよう!
(そんな心理療法があるんです)

皮膚は感情のセンサー?①

その場の雰囲気やムードのようなものを、まっ先に捉えるのは皮膚。
ピリピリした空気とか、張りつめた空気なんて言うね。
怖さや驚きにブルブルしたり、
緊張感や感動にゾワゾワしたり。
ちなみに、怖いからブルブルしたのではなく、
ブルブルきた→怖い、という順序が正しい。
無意識な感情とも言える身体の感覚が、意識できる感情に変換されるってこと。

皮膚感覚のセンサーの目盛が「強」の人や、
なんか場に呑まれそうだなと思ったときには、
自分の手の甲や腕を優しくゆっくりとさすってみたり、
自分で自分をハグしてみよう(イメージでもいい)
肌の感覚が緩んで、身体の芯もほっとするよ。
(深呼吸もいいね)

Bonjour!

早朝の緑の並木道を、サンダーと歩いている。
石畳を行くムッシュウやマダムと、オハヨ ゴザイマスと朝の挨拶を交わす。
配達に来る牛乳屋さんの、マルシェのシャッターを開ける音がする。
メトロの広場には、マエダ・トルシエ騎馬像があって、
パンをつつく鳩を横目に、改札にタッチして戻ってくる。

…気分はパリはシャンゼリゼ通りなんだけど、
蝉の大合唱だわ 汗ばんでるわ 蚊に刺されてるわで、
名古屋は荒子の夏の朝なのでした。
(荒子は前田利家の出身地なの)

知らないうちにたまってる「選択疲れ・決断疲れ」を減らすには

私たちは、毎日たくさんの選択と決断をしている。
大統領でも、庶民の私でも、日々同じ数ほどの選択と決断をしているという。
国や世界を左右するような重要事項と、
今日はどの服を着ようかなー、なんてことは、
脳の疲労度でいったら「おんなじ」なのだそう。

さて、取るに足りないことに、選択疲れや決断疲れをしていないだろうか?
机の引出を開けたらいろんなボールペンがいっぱいあって、
これはインクがない、こっちは書き味悪い、景品から使うか…
こんなことでも、脳は選択と決断の一つにカウントするのだ。
この調子でいったら、午後にも脳は疲れがたまって、
選ぶのが面倒になって、目にした物を衝動買をしたり、
普段なら選ばないようなことを、間違って決断してしまったり、
選ぶことも決めることも、ままならなくなったりもする。
…大統領だったら、これは困ったことになるなぁ。

仕事や子育て、勉強や趣味、創作やライフワークなど、
いま自分にとって重要だと思うことにエネルギーを注ぎたい。
大事な場面で、よりよい選択と決断をしたい。
自由な発想や、深い洞察をするために。
そんな人が始めているのが、お気に入りを決めて使うこと。定番化だ。

オバマは大統領の時、紺色のスーツがトレードマークだった。
スティーブ・ジョブズは、イッセイ・ミヤケの黒に近い濃紺のTシャツに、
リーバイス501とニューバランス993のスニーカーがお決まりだったのは有名な話。

ここまで究極に服を定番化をしなくても、なにも服に限ったことでもなくて、
いま持っている物を減らすことでも、脳の疲労度は違ってくるのでした。

物語はここから始まった/2017年はアイメイト60周年

アイメイト協会を卒業したペアは 1,330組。(2017年7月15日現在)
日本に10ある盲導犬協会の中で最も多く、
海外でも1000組をこえた団体は僅かだという。

アイメイトの物語は、今から60年前に、
絶望の淵にいた二人の男と、垂れ耳の冴えない一頭のシェパード犬から始まった。
それは、日本の盲導犬の歴史の始まりでもあるのでした。

・NHK「プロジェクトX」 2002年2月12日放映
「ゆけ チャンピイ 奇跡の犬」 ~日本初の盲導犬・愛の物語~ – YouTube

なぜ「互いの眼差しのなか」にいると元気になるのか/「覚醒のネットワーク」上田紀行・著

30年近く前になるだろうか、私が持ち歩いては読んでいた本。
物が多いと、幸せになるどころか不幸になっていくことを教えてくれた。
世間や誰かのせいにし続けると、自分がどんどん無力になる仕組みも知った。
いま思えば、私の暮らしや考えの原点になっている本かもしれない。

なかでも興味深いのが、スリランカのある伝統儀式の話。
出社拒否のサラリーマンのお父さんや、突如ふさぎこんでしまった若者など、
病院に行ったけどどうも…、という症状は、
スリランカでは、昔からこう考えられてきたという。
「人々の眼差しの中から外れてしまった人は、悪魔の視線に捕まってしまう」。

再び人々の眼差しの中に患者を戻す作業が、悪魔払いの儀式だ。
言葉の響きから恐ろしそうだけど、これが実に楽しそう!
この儀式は二部構成になっている。重要なのは一部よりも二部だ。

一部はシャーマンが患者をクタクタになるまで一晩じゅう踊らせる。
二部は、村中が総出の「かくし芸大会」なのだ。
患者を前に、替え歌あり、漫才ありの爆笑お楽しみ会で、
患者も村の人も大笑い。いつしか患者が人々を笑わせては皆が大喜びする。
こうして地域の人と互いに顔見知りになり、患者の症状は回復していく。

眼差しの中に入るということは、共同体の中に入るということ。
これは、なにも大げさなことじゃなくていい、と私は思っている。
近所の人とエレベーターで一緒になったなら「おはよう」と挨拶したり、
道行く知らない人と目が合ったなら、微笑んだり。
街で困っていそうな人に出くわしたら「どうしましたか?」と声をかけてみる。
他の誰かに眼差しを向けることは、誰かの為だけじゃない。
自ら眼差しの中に入っていくことで、自分も元気になるのでした。

「覚醒のネットワーク」上田紀行・著
カタツムリ社/1989年(現在は絶版)

まっさらな目と耳で

「あなたは犬派? 猫派?」の可愛い論争は微笑ましい。
性格とか恋愛タイプとか、
犬と猫、どちらが好きかで分かる、なんていう説もあったりして、
へー、そうなんだと納得したり、
そうでもないよと思ったり、
ほんと、話のネタとして楽しい。

でも、意味付けが過ぎると、とたんに変なことになる。
「あなた猫を飼っているんですか、あなたの性格は云々」と、
たとえば、さほど知らない人に決めつけられたとしたら?
(もう、いいや。どうでも)と心の扉を閉めたくなる。

ときに意味付けは役にたつけれど、それをちょっと脇に置いて、
いつだって、まっさらな目と耳で向かい合いたいものだ。
(家族とか近い関係ほど、ね。自分自身にも)

エスカレーターの「暗黙のルール」を考える

エスカレーターは真ん中に立つのが、設計上よろしいそうだけれど、
日本では東と西で左右の違いはあれど、片側に寄って、
空いた側は急ぐ人の「追い越し車線」にする暗黙のルールがある。

しかし、この暗黙のルールに困ってしまう人たちがいる。
たとえば、お子さんやお年より、怪我や障害をお持ちの方と一緒の方は、
手をつないだりして、並んで安全に乗りたい。
白杖を利用する視覚障害者や、松葉杖や歩行杖を支えにする方は、
杖をを持っていない側の手でベルトを掴みたい。
バランス機能の関係で、安定する側が決まっている方もいれば、
どちらかの手でしかベルトに掴めない方もいる。

しかし、「迷惑をかけるから」と、暗黙のルールを気にして、
周りに合わせて乗っている人も人知れずいるのだ。
そんなムードを変えていこうよと、
「立ち止まって乗りたい人もいる。立ち止まる勇気をひろげよう」と
東京都理学療法士協会が呼びかけているそうだ。

さて、私の場合はどうかというと、
サンダーと並んでエスカレーターに立ち止まって乗る。
後ろの方は、左右どちらからでも追い越しができないのだけれども、
「どいて下さい」と言われたことも、無理やり通って行った人に遭遇したことも、
そういえば…、ないんだなぁ。ない。なかった。
後ろの知らない人と犬談義になったことなら、結構あるんだけど。

これは名古屋の良いところ、東京ほど過密じゃないというのもあるし、
サンダーが相当に目だって分かりやすいのもあるだろう。

その人の安全なエスカレーターの乗り方が、
ごく普通に自然にできる街になりますように。
そう願いながら、私とサンダーはエスカレーターに「堂々と」乗るのでした。

サボテン

若い頃にサボテンを育てていた。
サボテンが宇宙と交信するショートショートストーリーを読んで、
べつに信じたわけではないけれど、ロマンチックだなぁと思って集めていた。

育てるのは簡単だというイメージのサボテン、実はそんなことはない。
朝顔のように、毎日お水をあげたらいいわけでもないし、
観葉植物のように、葉の状態を見て「お水ほしいのかい?」と分かるのでもない。

サボテンは何を考えてるのか分からないというか、顔色が分からないのだ。
何かおかしいと気がついた時には、もう手遅れ、
表面は変わらないのに根腐れしてたり、空洞になっていたり。
ベビーサボテンは全滅したけれど(赤ちゃんだから難しいと後から知った)、
ポーカーフェイスのサボテンたちとの付き合いのコツも掴んで、
柱サボテンと球サボテンは、鉢を何度か大きくしたくらい成長した。

ある時、柱サボテンの頭が急に、にゅぅと萎びて細くなったことがあった。
その後にまた戻ったのだけれども、くびれが残った妙なサボテンになった。
手入れは怠ってはいなかったのに?
あっ!と気が付いた。
私が心身ともに参っていた頃に、サボテンに異変が起きていたのだ。

宇宙とじゃなくて、私と交信していたの?
(元気を分けてくれていたのかい?すまなかったなぁ。)

なぜ身体の動作が、心に影響をあたえるのか

ストレスを感じたり、恐怖や不安、悲しみや怒りなどの感情に気がついた時に、
フゥーと深呼吸をしたら心が落ち着いた、という経験はないだろうか。

リラックス状態では、自然と呼吸は深くてゆったりしている。
反対にリラックスしていない時は、呼吸が速くて浅い。

では、リラックスしてないなと気がついた時に、
あえてリラックスモードの、深くゆったりとした呼吸をすると?
「いま私の身体はリラックスモードです」と脳に電気的に信号が送られる。
すると、その信号を受け取った脳は、
「いまリラックスしてるようだね(知らなかった)」と、
落ち着いているという感情を作り出す。

それでは、浅くて速い呼吸をすると?
脳はこう受け取る。
「おや、これはリラックスしていないサインだ。了解。」
落ち着かないとか、ネガティブな感情も作りだす。
こうして理由もないのに、ささいな理由になぜかイライラセカセカ。

呼吸だけじゃない。姿勢や動作も同じことが言える。
こんな実験がある。
二分間、身体を縮こませて立ったり座ったりを繰り返すと、
無力感が生まれ、何かをする気力が萎え、
ストレスホルモンのコルチゾール値が上がる。
一方、体を上に伸ばしたり、腕を拡げて胸を開いたりする動作や、
歩いたり、ダンスしたりジャンプするなどの「軽いリズム運動」は、
やる気や幸福感が生まれ、ストレスホルモンのコルチゾール値も下がる。

呼吸や関節や筋肉の動きは「無意識の信号」で、
その信号が脳に届き「意識できる感情」として変換されるというわけ。
この馴染みの感情のトリガー(引き金)は?
自分の呼吸や姿勢や動作を観察してみよう。

私たちの感情は、日頃の身体の使い方次第と言ってもいい。
これは侮ってはいけない、ちいさなことだけれど大したことなのでした。
(パソコンやスマホ、呼吸は浅くて、丸めた姿勢で、固まって動かないんだよね)