月別アーカイブ: 2015年5月

フレー・フレー

晩御飯を食べたあとに、アイメイトのサンダーとお散歩していたら、
ある御一行が後ろから追い抜いていきました。

「すいませーん! とおりまーすー!」と
男性に声をかけられたと思ったら、脇を自転車がシャーと走り抜けました。
続いて子供用とおぼしき小径の車輪の音の自転車が(補助輪つき?)
ガラガラと走りぬけました。
続けて女の人とおぼしき喘ぎ声で
ハフハフゼェゼェとバタバタと駆けむけていきました。

…なんだ今の?
パパと子どもが自転車に乗って、ママのランの伴走?

今も、私の中でこの一行が走っている感じが残っていて、
思いだす度に、ほのぼのしちゃうのでした。

サンダーのシャンプー

こんにちは、フムフムです。
いかがお過ごしですか?

今日はサンダーをシャンプーしました。
「サンダーのシャンプーはどうしているの?」と
たまに聞かれることがありますが、
自宅で一人で洗っています。
ドライヤーで乾かす番になったら、母がアシストしてくれます。

東京のアイメイト協会の訓練所で、
シャンプーのやり方も習って帰ってきて、
はじめて自宅でサンダーを洗ったときは、
とっても時間がかかってしまいました。
じーっと大人しく丸洗いされていたサンダーですが、
余りの私の手際の悪さに業を煮やしたのか
「…んもぉ~」と、
まるで牛さんみたいな一声が。
エーン。
身体もヘトヘト、
たしか、その後は私、寝込んでしまったような。

今はすっかり慣れて手際も良くなり、
疲れることもなくなりましたよ。
相変わらずサンダーは、
じーっと大人しく丸洗いされています。
あれ以来、「んもぉ~」はないです。

「なんとなく」の理由

なんとなくモヤモヤするなあ、
どことなく落ち着かないな、
なぜかイライラしたり、罪悪感がある。
考えてみても理由が分からないときは、お部屋や家をお片付けしてみましょう。

持っていたことすら忘れている物や、
もう使わないと分かっていながらも押し込んでしまいこんでいる物には、
悲しみや寂しさやいじけてしまった「気エネルギー」が
たくさんたまっているものです。

そのエネルギーを無意識で感じていても、まるで無視している状態なので
申し訳なさで罪悪感があるのです。
物が発するエネルギーに反応してイライラやモヤモヤしてしまいます。

もうお役目を果たしてくれた物や、
今の自分には、もうエネルギーがフィットしないなと感じた物は、
いままでありがとうとお礼を言って、解放してあげましょう。
空きスペースに新しい気が入って、光が当たります。
気持ちにどんな変化があるでしょう?

無意識を知る手がかりは 表面意識と無意識②

無意識は、過去に経験した記憶、
あらゆる種類の感情や、様々な思いの詰まった、言わば巨大な保管庫です。

普段、私たちはほとんど表面意識にいます。
保管庫の扉は締まっている状態です。
しかし、扉が開くときもあります。
睡眠中に夢を見ているときや、深くリラックスしているとき、
禅や瞑想などで、頭がからっぽで心が無心になっている時などです。
無意識からのメッセージは
思考の活動がお休みしているときに、フッとやってきます。

それから自発的に知る方法もあります。
自分の口癖、
ついついやってしまう行動、
考え方の癖、
くりかえしてしまうトラブルのパターン
…無意識に言ったり、やったりすることを自己チェックすることです。
案外、自分では分かっていないことが多いです。だから無意識なんですけどね。

あるがままの自分を知ることを自己理解といい、
素直に自分を見通す作業を自己洞察といいます。
お手伝いをするのが心理カウンセラーです。

(おわり)

表面意識と無意識①

私たちの心には二つの意識があります。
表面意識と無意識です。

表面いしきとは、自分で気がついている意識のこと。
無意識とは、自分で気がついていない意識のことです。

この二つの意識は、よく氷山に例えられます。
表面意識は大海から顔をだしているほんのわずかな一角で、
無意識はその下の、水のなかに沈んでいる見えない圧倒的な大部分です。
この見えないところが、私たちの人生の大きな部分を占めています。

こんなことってありませんか?
ある人のことが心に浮かんだ途端、電話がかかってきたり、
欲しいなと思っていたものを、タイミングよく貰ったり、
気になって行く道をかえたら、事故を免れたり。
こんなラッキーな現象は無意識の仕業。

しかし、ラッキーではない現象も、無意識の仕業です。
頻繁に事故やトラブルを引き寄せたり、
いつも虐待や暴力を受けてしまったり、
なにか依存にはまってしまったり。

無意識はラッキーもアンラッキーも引き寄せるもの。
私の無意識どんなんかな?
無意識は心の奥深くに押し込んでいるので、自分では気づきにくいものですが、
手掛かりはあります。

(続きます)

「モロッコの台所」エットハミ・ムライアメド 寺田なお・著

名古屋の素敵なカフェ「モモ」さん。
エットハミ・ムライアメドさん、
寺田なほさんご夫妻のモロッコ料理の三冊目の本、
「モロッコの台所」が、6月5日に発売になるそうです。
友人で、写真家でプロデューサーのシュガーキューブ・佐藤加奈さんが
モロッコ現地で撮影してきた写真が掲載されています。

これから暑い日が増えてきますね。
クスクス(細かい粒状パスタ)を使った、
野菜たっぷりの、サラダ風、
「タブレ」が美味しい季節ですよ!
我が家では昨年の夏シーズン、
モモさんのレシピのタブレを毎日のように食べていました。
昨日からタブレがシーズンインしましたよ。
今日の晩御飯は同じくモモさんのレシピの
牛肉とプルーンのタジンでした。
これもまた美味しいんです!

*「モロッコの台所」
エットハミ・ムライアメド 寺田なほ
2015年/KTC中央出版

ローズガーデン

5月某日
名古屋の鶴舞(つるま)公園へ。
お目当てはバラ園。

バラの花に顔を近づけると、
ふわあー、いい香り~。
どれどれと、
サンダーも顔を花にくっつけている。
おーい、
蜂さんに気をつけてねー。

ひかえめな香りのバラが、
大輪で見栄えが華やかだったり、
強い芳香のバラが、
シンプルで慎ましやかだったり。

鶴舞公園には大きな木が多い。
ヒマラヤ杉
樹齢150年のクスノキ
しばらくハグをする。
気がついたらサンダーが、
ご婦人の団体に囲まれていた。
…おーい?

色眼鏡

日本の離婚率は、三組のカップルのうち一組と言われています。
メディアで取り上げられたり、日常の話題にしたりします。
しかし、これはよく間違えやすいのですが、
「その年の新規婚姻届数と、その年の離婚届け数」です。
え? これって正しい離婚率といえるの?

たとえば、こんな正しいとは言いきれない何かを
鵜飲みにしていると、本当のことが見えなくなります。
まるで色眼鏡をかけて眺めるようなものです。

色眼鏡とは「先入観」のことです。
先入観は、時に差別や偏見に、
また、美しい誤解というものになったりします。
そして、どちらかの反動で、振り子が逆に振れていることもあります。

ありのままを素直に見るためには、
頭のなかの「理性のおしゃべり」を続けない、
つまり、意味づけや解釈や連想を続けないこと。
意味づけや解釈は
先入観だったり、過去の経験や知識だったり、思い込みだったり、
けっこう曖昧なものを寄せ集めしていたりします。
不確かで過去のことをグルグル連想していたら
それはもう、現実からどんどん離れていきますよね。

日常でどことなく、しんどさを感じているとしたら、
自分の色眼鏡をチェックするベストタイミングです。
「私は色眼鏡をかけていない」という
最強の(最悪の?)色眼鏡があることもお忘れなく。

空白に可能性がやってくる 理性のおしゃべりとは②

前回からの続きです。
理性のおしゃべりとは、現実を意味づけ&解釈して、
次々と連想する、頭のなかの絶え間ない会話です。
それが現実と違っていても、考えている間はそれが分からない。
どんどん本当のように思い込んでしまうのです。

さて、この「理性のおしゃべり」を止めてみましょう。
…止まりませんね。
停めようと考えれば考えるほど、グルグルしてきます。

では、前回の例で実験です。
あなたが仕事でミスをしたとします。
今回は、意味づけと解釈なし、他の連想もしないで向き合ってみてください。

「仕事でミスをした」

…ええ、仕事でミスをしました、マル。
あら、終わっちゃった。グルグルしません。
空白には何もなし。
この状態が、あるがままを素直に見ているという状態です。

では、再び意味づけと解釈と連想なしで、
この空白に、自由に何が浮かぶのか感じてみましょう。

くやしいと本音がポロリと出てきて、悲しくなってわあわあ泣いて、
ああ、悲しかったんだ私は。そう気づくかもしれない。
「どうしたら今度はうまくいくのかな?」と心に浮かんだとしたら、
次の企画をはじめたり、本屋でふいに手にとった本をなにげなくめくったら、
そのページにこれ!ということが書いてあるのをみつけたり、

仕事をを辞めようと浮んだとしても、グルグルのループの渦中のそれとは違って、
ほんとうにやりたかった仕事をしたいとか、自分の願いに素直になったから。
その素直な願いを、素直にありのまま上司に伝えたら、
配属が変わって辞めなくても済んでしまった、とか。

どこか穏やかなパワーが内側から柔らかくほんわかと。
心にギアが入っている感じ。手足がスムーズな感覚。
現実は一緒なのに、こんなに差がありますね。

禅の瞑想は、心を客観視する力を高めて、
現実と思考の違いを見極めるレッスンです。

ぐるぐるのループはこうしてできあがる 理性のおしゃべりとは①

禅の瞑想をすると、頭のなかの「理性のおしゃべり」が続かなくなります。
この「理性のおしゃべり」とは、どんなもので、なぜ続いてしまうのでしょうか?

あなたが仕事でミスをしたとします。
ミスをしたことは「現実」です。

では、この現実に、「だから」と意味づけと解釈をして、
次々と連想してみましょう。

※「仕事でミスをした」
だから私は無能な人間だ→
やっぱり私は成功できない→
父親譲りの失敗続き→
私はダメ人間だ→
だから生きる価値もない→
もう仕事は辞めるしかない→
辞めたら家族はどうなる?→
路頭に迷ってしまうはず→
そうなるとこれは不幸のどん底→
でも負けないで、がんばれ私→
でもまたミスをしてしまったら?→
やっぱり私はダメ人間→

…グルグルしてますね。
ちょっと大げさですが、こんなふうに思考は膨らんでループしがちです。
どこまでも続きそうで、どんどん現実と離れていきそう。
ギアが空回りで、手も足も出ない感覚。
この感覚をもたらす歪んだ考え方の癖を
心理学では「認知のゆがみ」といいます。
ときおりポジティブな面も顔を出しますが、振り子が戻ったということです。
なんだか疲れてしまいます。

そうなんです。
歪んだ考え方の癖はあなたからパワーを奪います。
現実に連想と意味付けと解釈をくっつけると、
頭も体も疲れてしまうんですね。

では、理性のおしゃべりを止めてみたらどうなるのでしょう?
続きはまた。