月別アーカイブ: 2016年2月

照れ屋さんだもの

「お父さんがやっと出てきてくれたの」と母が言った。
昨年の初冬に、父の三回忌を迎えた我が家。
…えーっと、お母さん。
ユーレイじゃなくて夢に出てきたんだよね?
夢の中の父は、にこにこ笑っていたそうだ。

私はというと、三回は父の夢を見ているだろうか。
教室のようなところで、ふりむけば離れた列の机に父が座っていた。
ひろげた教科書のようなものに目を落として、口を動かしていた。
ふと私を見て照れ笑い。
…変わってないのぅー。

もしかして、もっと父の夢を見ているかもしれないし、
実のところ、ちょこちょこ父と会っているかのような気さえする。

父は駆け足で旅立っていったのだけれど、
私たち姉妹は、事前に最期のお別れができた。
お別れの場面が苦手な私だったけれど、
最後になった父とのやりとりは、もう上出来としか言いようがない。
しかし母は、最期のありがとうが間に合わなかったとしばらくは悔いていた。
それも照れ屋の父らしいんだよなぁ。

お別れがギクシャクするのはセンチメンタルなだけじゃなかった

お世話になっている鍼灸院のスタッフのひとりが、
今月いっぱいで別のお店に転勤することに。

私はこういう転勤や離職の送別の場面に、
少々というかおおいに困っちゃう。
どうもミョーにギクシャクしてしまうのです。

思いだすだけで顔から火を噴きそうなエピソードは、
お世話になった側なのに、
お世話した口調になっちゃったこと。
瞬時に気づいて、もう気まずかったです。

ただでさえお別れがセンチメンタルでたまらないのに、
こんな場面の気持ちの空回り感はさらにセンチメンタルになります。
あーあ、モヤモヤするなぁ。

…まぁいいや。
そのスタッフさんを思いうかべてみるとしよう。
店のいちばん長い期間のスタッフ(若いけど)さんで、
ほんとムードメーカーだったなぁ。
じいちゃんばあちゃんの接客のやりとりを聴いていて何度爆笑したことか。
施術中のおしゃべりも楽しかった。
まさか他の店に移るなんて思っていなかったから、
あたしはビックリだよ。
ほんと転勤だなんて残念。
さびしいのう。
…あ、このまんま言えばいいのか。
そして言ってスッキリしました。

そういえば、こんな場面が苦手なあまり、
お別れにふさわしい言葉を探すばっかりで、
相手を思い浮かべてなかったなぁ。
その姿を描写しているうちに、あとは自然と気持ちが言葉に乗るものですね。

きちんと言えたスッキリ感で、
新しい店でもがんばってね、と言っていたのでした。

おんたけさん

木曽川が流れ、御嶽山(おんたけさん)が見える
そんな岐阜県の可児市に住んでいました。

住んでいた家の階段の窓から、
(他の家が建てこんでくる前ですが)
通学に自転車で激走していた時や、
市内を車を運転していたときも、
冬には白い雪を纏った御嶽山が、
大きくも小さくもなく見えたものでした。

…いや、見ていたんだけどね。
ぼーっと「宿題やってなかった(いつもだけど)」とか、
カーステレオから流れる音楽に気をとられたりで、
ちゃんと見てたかどうかは、なんとも自信がないなぁ。

でも、ふと思いだしたりもするのは、
やっぱりいつもそこにあったからでしょう。
さほど見たという意識はないけど、
目に浮かぶというのはあるものですね。

御嶽山の中腹にあるキャンプ場は、
私が一番好きなキャンプ場でした。
一昨年の噴火の時は、
ニュース映像が見えなくてよかったとさえ思ったものです。

ここ名古屋でも、場所によっては御嶽山が見えるようで、
山は小さくなってはいるけど、と母は言います。
数日前の空気が澄んだ日は、マンションの玄関通路から、
名駅の高層ビルの隙間に綺麗に見えたそうです。
じきに春霞で白い姿もかすんでしまうのかな

犬の吠え声も場所の目印になります

私とアイメイトのサンダーの歩行ルートのひとつに、
ドーベルマンを飼っているお宅があります。
脇を通るたびに吠えられちゃう。柵に体当たりする音も聴こえてきます。

「あ、次の横断歩道は信号あるところだな」と、
ドーベルマンの吠える声で、場所を確認するには大変に便利なのだけれど、
もう迫力ありすぎて、こわいやら驚くやら。
大丈夫と思っていても、心臓がドキドキします。
サンダーは顔を向けるか、
ちょっと小走りになります。

そこで、ある作戦にでました。
ドーベルマンが吠えている時、
ベリーちゃーん♪と名前をよんでみました。(意外とかわいい名前)
…ナヌ?
吠えていたベリーちゃん、一瞬怯みましたよ。
でも次の瞬間にはまた吠えましたけどね。

しかし、ベリーちゃんが吠えない時もまれにあって、
それはそれで気になるんですよね。
今日はいないのかな?ベリーちゃんどうかしたの?
なので吠えられてちょっとホッとしたりもします。

物事をシンプルにする「お互いオーケー」なアラブの言葉

「イッヒアラー」というアラビアの言葉がある。
神のおぼし召し、という意味ですが、
とても便利な慣用句。
私がエジプトに旅行した時に唯一覚えた言葉です。

たとえばコップを誰かが割ったとしたら、
イッヒアラーと声をかけます。
そのコップは割れる運命だったんだよ、という感じ。
あなたが悪いわけでも、私が悪いわけでもない。
さ、片付けようぜ!みたいな。

これは生活の知恵かもしれないな。
天や運をダシに使って、
「あなたも私も悪くない」にしてしまう。
つまりお互いオーケーになると、
ずいぶんと物事はシンプルになるものなぁ。

サピエ(音声ネット図書館)にはマンガも

サピエ(視覚障害者の音声ネット図書館)には、マンガも所蔵されています。
たとえば、話題の「ネコピッチャー」や、ペンギンものの「バケツでごはん」。
サピエに入っているのは4コマや、短い一話完結なのかな、と思っていたのです。

しかしですよ、「ガラスの仮面」が音声図書になっているではないですか。
えー!しかも既刊ぜんぶ(49巻)ですよ。
私は「ガラスの仮面」の熱心なファンではないのですが、
それでも、たしか44巻くらいまでは読んでるはず(借りたりマンガ喫茶で)
ええっと、どこまでだったかなストーリー。
マヤと速水のloveは進展してる?してない?
紅天女はじまった?はじまってない?
気になるなー。

あー、どうしましょう。
また1巻から聴いちゃったら一巻の終わりだし、
聴いたとしてもラストじゃないし、
そもそも完結するのだろうか。

と、とりたててファンとは言えない私でさえヤキモキしちゃう、
ガラスの仮面は今年で連載40年になるそうです

驚くべき人

長らく私は「正直さ」を思い違いしていたものでした。
本音トークや、ぶっちゃけ話、
感情をストレートにだす。
何でもあけすけな人が正直なのね、と。
さあ、私もオープンにならなくては!

…それも正直さではあるのだけれど、
もっとなにか違うものがあるのかもしれないなぁ。
そんな風にぼんやりと思っていたのです。

何年も前になりますが、いろんな人が気づきをシェアする集まりやワークに、
参加したり立ち会うことがよくありました。
死や病気、人間関係、事業のことetc.
自らのことだったり、家族や大切な人のことだったり。
皆それぞれの淵に立っていました。

そこで驚くような人が中にいるのですね。
借り物ではない自分の言葉で、
寡黙な人は懸命に、いつもは流ちょうな人も訥々と語ります。

疑いのなかった自分の優しさや正義に裏があったと知ったとか、
不幸な自分に酔っていたことに気づいたとか、
自分のニセモノや嘘っぽさに気づいたと、語る人たち。
肩から荷を下ろしたかのように、これで楽になったと語る人も。

ここで語られる内容は、
巷で言われるポジティブシンキングや、自分さがしとは、
どこか違う質を感じました。

そして驚いたのは、自分の真のニセモノさや嘘っぽさを受け入れた人は、
内面から輝きのようなものが現れてくる、ということ。

後に、自己一致や自己開示など心理学概念を習うことになって、
浮かぶのはあの驚くような人たちの姿なのでした。

花の数だけ

近くの公園の梅の花が咲き始めています。
ほんと、身体が緩む香りだなぁ。

15年前、友人と和歌山に梅の花を見に行ったことがありました。
知り合いが梅農家さんだったのです。
山と谷が一面の梅の花で、
白く煙っているかのよう。
匂いで身体がユルユル~。
なんて素敵なんでしょう!

じゃ、梅の収穫のバイトに来る?という言葉に、
友人と二つ返事でこたえましたよ。
ということで、梅雨まっただなかに三週間お世話になりました。

でも気づいてなかったのです。
この花の数だけ実をつけることに…。

「ええカッコしい」は生き延びるため

私が心理カウンセラーを目指すきっかけになったセミナーでの話。
このセミナーはとにかくハード(日数も)。
このプログラムは、アメリカで受刑者の更生に採用されてもいるそうです。
それを後から聞いて、「そりゃハードだったわい」と納得したほどでした。

内容は、心理学の交流分析。
自分のコミュニケーションの癖やパターンから、自分を知るアプローチです。
自分の思い癖や、馴染みの感情や、歪んだ思い込み等々を見つめます。

中でも大変だったのが、このセミナーで「まがいもの」と呼んでいたもの。
ほとんどの参加者はジタバタし、堪らず泣いてしまう人も(フムフム含む)。
それも当然で、生き延びるために身に着けた「ずるいやりかた」を
自分で見つける作業だからです。
生き延びるための「ええカッコしい」。
いい顔(他もあります)する、本物ではない偽物っぽいという意味の関西弁です。

「ええカッコしい」が生き延びるための方策であるとは、こういうことです。
幼い頃は一人では生きてはいけません。
親や、親替わりの人に注目されてケアしてもらわないと、
たちまち死んでしまうからです。
また安全を確保するために、なお気に入られないといけません。

注目されて、気に入られるためには幼子なりに
黙ってみたり騒いでみたり、笑ってみたり泣いてみたり。
元気にしてみたり病気になってみたり。ワガママ言ったりガマンしてみたり。
あの手この手で、親や親代わりの人の気をひく条件をリサーチします。

たとえば、ある子は「いい子」にしていたら気を引けることが分かりました。
またある子は「悪い子」にしていたら効果があることを知ります。
ほんとうの自分がどうであろうが構いません。
だって生き延びるためなんですから。

こうして生き延びるために確立した「ずるい手口」は、
大人になっても知らず知らず続けます。
しかしとても歪んだ「まがいもの」なので、破たんしています。
しかし、それがどんなに自分を苦しめようが、まわりに迷惑かけようが、
手放すほうが怖いのです。
だって、これで生き延びてきた幼い記憶があるのですから。

…と、こんな「まがいもの」を見つけて、
なおかつ手放して(手放し続けて)いくレッスンですから、
そりゃハードです。あえてファシリテーターは挑発したり。
その自分のとっさの反応で気づくことも。

あ、また出てきたなと気づいたら、
まるで玉ねぎの皮を一枚一枚むくように手放します。
つまり、その手口から降りるのです。降りつづけるのです。

すると、いつしか自分が投影していた現実が変わっていくことに気づきます。
ああ、ええカッコしいの私でなく、「ただの私」でいいのだ…。
こうして本当の自分を愛することができるのです。

春ってやつは!

冬は私の好きなシーズンなのです。
お野菜が美味しいし、
空気も澄んでいるし、
あたたかい飲み物なんて堪んないし、
夜お布団にもぐる幸せときたら!

でも、ポカポカした陽気が顔を出してきちゃうと、
とたんに好きな冬に飽きちゃう。
寒さが戻って来ようものならアナタ、ですよ。

昨夜、ようやくサンダーの冬のお洋服が届いたと思ったら、
今日の名古屋は、この暖かさですよ。
間にあわなかったなと思いつつも、ちっとも口惜しくない。
ああ、口惜しくないのが悔しいねぇ~。