私は全盲なので、
話題の五輪エンブレムは目で見ることはできませんが、
家族や友人に説明してもらって、頭の中で「見る」ことをします。
これはなにも五輪エンブレムに限ったことではなくて、
お洋服や、お店の外観や、人の容姿なども同じですね。
どんな色や図形でどのくらいの長さや幅なのかという「見えるもの」と、
その人が受けるイメージや感情などといった「見えないもの」。
私のような目の見えない者は、
客観的な情報や事実と、
主観的な意味と解釈という
聴いた二つの言葉をミックスして、「見る」のだけれど、
このバランスも、説明してくれる人それぞれなのです。
言葉で伝えるという作業は、
「頭と心」、「知と情」のバランスをとりますね。
(このことは、回を改めて書きたいとおもいます。)
事実の説明の仕方は上手い下手はあっても、
たとえば牛丼が鰻丼になることもなく、だいたい同じですが、
美味しそうとか高級艘とか、あのお店のほうが好きだなとか、
その人の抱くイメージや、経験は、
それぞれに違うんだなあと面白いです。
さて、五輪エンブレム。
友人がこんな風に語ってくれました。
「日本や世界への
願いや祈りのようなものが感じられない」
この友人はデザイン畑の人で、
「デザインで一番時間を費やすのは、
願いや祈りのような見えないものをつかまえること」だと言う。
「その後はデザインが自動的にはまっていくのよ」と。
もちろんデザインの技術や完成度は必須ですが、
まず、「見えない物」が先にあったら、
はたして佐野さんの出る幕はあったでしょうか?
何をないがしろにしてきたのだろう?
私はどうなの?
この騒動は、今の日本の在り方の象徴のような気がします。