「目が見えているみたい」と言われることが多い。
言ってくださる方から、驚きや賞賛のようなものを肌で感じるので、
私は素直に嬉しい。
親切な人や優しい人の多い名古屋だけれど、
ごく稀に、ン?と思ってしまう方に出会うことがある。
「見えているんじゃないか」と疑惑を持たれたり、
「見えているくせに」と非難されたり。
実は昨日の朝、
「見えているくせに犬(盲導犬)連れやがってバッキャロー」
と、すれ違い様に暴言を言われたのだった。
そんなに歩く姿が自然に見えたのか!?と嬉しい反面、
それがとんだ誤解になるなんて…、と複雑な心境になった。
その人のイメージに合わないからなのだろうか。
例えば極端な話、
勝新太郎の座頭市が視覚障害者のイメージになっているとしたら、
実際の視覚障害者は、おそらく誰もイメージに合わないだろう。
私は網膜の障害なので、一見して健常者の目と変わらない。
中途失明なので、見えていた頃のふるまいや所作が残っている。
もちろん多くの視覚障害者がそうであるように、
努力や工夫、訓練や手助けで、ありふれた日常生活を送っている。
そんなこと知らない人は知らない。
でも、それも当然なことなのだ。
言われのない誤解や非難、暴言や陰口、
やはり傷ついたり、腹も立つけれど、
これはコントロールドラマかもしれない、と気がついた時は、
「土俵から降りる」ことも早くなってきた。
しかし、「どうってことない」と思えるようになってきたのには訳がある。
だって、家族や親しい人たちは、私の道のりを知っている。
そして、いちばん自分自身が道のりを知っているもんね。
陰口や暴言の人は、見ず知らずの人だったりするものだ。
その人たちが私の道のりを知らないように、
私も、その人たちの道のりは知らないのだ。