相当に前のことになる。
私が通っていたスポーツジムのスタッフさんの話だ。
えっと、ここでそれを言っちゃマズイよ?!というようなことを、
その人は相手に言ってしまうことが多かった。
端から見ていてヒヤヒヤするし、
私も言われてモヤモヤした。
その人は悪気があるわけでも、状況が分からないのでもなく、
親しみを深めたい、その一心だということは肌で感じるのだが、
聞き流すにも、受け流すにも、
笑ってスルーするにもコンディションというものがある。
限りなく失言に近い、ギリギリのコース球だ。
私が疲れているときは避けきれず、もろに命中した。
リフレッシュするつもりでジムに通っていたのに、
なんだか気疲れしてしまい、いつしか足が遠のいたのだった。
その人は明るく饒舌な社交家なのに、
何故か違和感を感じてしまうのが不思議だった。
その後にスピリチュアルや心理学を学んで、
「安心」から出発する、「充たしあうコミュニケーション」と、
「恐れ」から出発する、「奪い合うコミュニケーション」があることを知った。
二つの違いは「自己肯定感」によるところが大きい。
自己肯定とは、自分に対する愛や信頼のことで、
自分への愛や信頼が貯まったタンクが、ひとりひとりの心にある。
このタンクの所蔵量を増やし、キープする方法は、
安心から出発する、満たしあうコミュニケーション。
恐れから出発する、奪い合うコミュニケーションを自分が採用する限り、
心のタンクは目減りするばかり。
だから、他人のエネルギーを奪うことに必死になってしまう。
(当ブログ「コントロールドラマ」をご参照ください)
そうか。あのスタッフさんは恐れていたのかも。
親しみを深めたいというのは、
親しまれていないのでは…という不安の裏返しだったのか。
今だったら、どう言えるかな。
そして、自分にも似た要素があるなぁ…と気がついたのだった。
いま私のコミュニケーションは、
安心から出発しているだろうか?
恐れから出発しているだろうか?