月別アーカイブ: 2016年9月

失敗を乗り越えるのは成功体験②

夕方にサンダーと歩くと、秋刀魚を焼く匂いがするようになってきた。
こないだは「あ、秋刀魚」「こっちも秋刀魚」状態だった。

アイメイトのサンダーとペアになりたての、しばらくの間だったろうか、
そういえば、家の周囲を歩いていて街の匂いが分からなかったっけ。
反対に、やけに音が大きく聴こえたものだ。
いつの間にか匂いが分かるようになり、音も普通の聴こえになった。
あの頃はストレスのかかる状況だったのかな、と今にして思う。

家から数分の最寄りの駅まで行って帰ってくるだけで、
身体はガチガチ、真冬なのに汗かいてグッタリのクタクタ。
サンダーとの意志の疎通もまだまだの時期、
引っ越ししたばかりだったので、地形も道も知らないオマケつきだ。
家の前を通り過ぎたり、違うとこで角を曲がったり、
とほほ…。
片道数分の駅が、果てしなく遠く感じられたのだった。

しかし、出かけたら家に帰らない訳にもいかないので、
午前に失敗した場所に、午後から出かけてはクリアするを繰り返した。
「なんとか家に戻ってきた!」が、この頃の成功だったのだ。
ばんざーい、嬉しいなぁ~。玄関でしみじみ思ったものだ。

健常者の方にしたら、「そんなことが?」かもしれない。
困ったことを、「そんなの、どこが問題なんだ?」とはなから笑われもした
(反面教師というのか、私を映し出す鏡になってくれる人はありがたいものだ)
しかし、大変な思いをした経験を持つ人や、
そんな人達と向き合い続けてきた人は違ったのだった。
そういえば、今でもお付き合いの続いているのは、そんな在り方の人達だ。

次第に駅からノーミスで帰れるようになり、
いつしか、ぐるりと一時間ウォーキングコースも何本か開拓した。
…サンダーよ、思えば遠くに来たもんだねー。

「海からの贈物」アン・モロウ・リンドバーグ・著

著者がこのエッセイを書いたのは49歳、と最近になって知った。
サピエ(視覚障害者音声図書)で読み返す。
私がこの本をはじめて読んだのは、22か23歳、
来年には当時の著者と同じ齢になる。

書かれた60年前のアメリカは大量消費社会で、
著者は妻として母として、都会で煩雑な毎日を送っていた。
ちなみに夫君は、あのリンドバーグ。
著者も名パイロットだった。

家族と離れてひとり、小さな島のヤドカリみたいな家での休暇の日々を綴る。
ほとんど何も置かれていない家に、
その中を風と日光と松の木の香りが通り抜ける。
ここで暮らすのに必要な物はあまりに少ないと気づき、
浜辺で拾った貝殻たちと対話しながら、
枯れていた心の泉が、いつしか充たされていく。
女には一人の時間が必要なのだ、と。
自分の内部に目を向ける時間が、である。
同年代に比べて、自分の時間が多い私だけれども、
気がつくとネットやなにかしらで、せっかくの時間から気を散らしていた。

若い頃に読んで気がつかなかったのだが、
こんなに、ミニマムな暮らしを考える話だったなんて。
昔は詩的な描写と重厚な文章を観賞していただけだったのかな。
いま読むと、自分も浜辺に佇んでいるかのように生々しく感じる。
ある種の本は、自分の内面に目を向けることを助ける。
これはそんな本だ。

*「海からの贈物」
アン・モロウ・リンドバーグ
吉田健一・訳
新潮文庫

失敗を乗り越えるのは成功体験①

15年ほど前になるだろうか、
兵庫県の三木市にあるホースランドパークで馬術大会を見た時のこと。
(ちなみに、まだ視力があるときです)

人馬一体って、こういうことなのねー。
馬が美しいステップをふむ、まるでダンスしているような馬場競技と、
バーをフワリと跳び越える障害競技を見たのだが、
あれ?と謎に思ったのが障害競技。
(なにせ何年も前の記憶なので、正確ではないかもしれないが)

跳躍で馬がバーを落とした場合、
そのペアの演技自体が終了した直後に戻って行って、
失敗したバーをクリアするまでジョッキーが跳ばせていたことだ。
クリアしてから、次のペアが出走していた。

この謎、先日のリオ五輪で解けたのだ。
馬は賢く、繊細で臆病なところもあるので、
失敗体験で終わると、馬はその体験を憶えていて、
次の機会にあきらめて、跳べなくなってしまう。
だから、バーをクリアした成功体験で終わらせるのだとか。

…へぇー、そうだったのか。
私も似たような経験がある。
ジョッキーじゃなくて馬の気持ちなんだけど、
目の見えない日常は、いくつものバーがあるようなものだ。

ここで思いだしたのは、
入会していたスキューバダイビングクラブのインストラクターさんの体験談だ。

インストラクタートレーニングのダイビング中にパニックになった。
やっとの思いで浮上して陸にあがっていた私を、
師匠は「俺とすぐ潜れ!」と命じたのです。鬼かと思いました。
でも、おかげで今があります。
あの時、泣いて怖がる私を掴んで、
「お前は二度と海に潜れなくなってもいいのか!?」の師匠の言葉は忘れません。

…命を預かるインストラクターさんの、命がけの克服話だ。
これは極端な荒療治で、
もちろん心理カウンセリングの世界では、こんな極端で無茶なことはない。
いくつも段階をふんで、
クライエントさんに小さな成功体験を積んでもらうのは言うまでもない。

失敗というバーを乗り越えるのは、
怖さをを喜びに変えるのは、
やはり成功体験なのかもしれない、と思ったのでした。

自分の気持ちに気が付き、相手にも伝わる「Iメッセージ」とは

外国の方は自己主張が上手いなぁ、と思ったことがある。
とくに嫌だと思うことを断る、何か交渉するなどだ。
自分の主張をはっきりと、しかもスマートに。
言った側も言われた側もサバサバ。

その点、日本人は少し自己主張が苦手だったりする。
自信がないからというよりも、
そもそも何を主張したらいいのかすら、よく分からないのではないか。
これは、日本語と他の外国語の構文の違いもあるようだ。

例えば英語だと、
私は嬉しい、私は悲しい、私は怒っている、など
「私は○○。なぜなら○○だから」
というように、「私の主語」のIの直後に動詞がくる。
冒頭に自分の意見や意志、感情から始めなきゃいけない構文なので
「えーっと、私の考えは?」
私の感情はどうかな?」と、常に意識しているようなもの。

対して日本語は、冒頭に自分の意見や意志、感情から始まる構文になっていない。
なので、自分の意見も意志も感情も、常に意識することが少ない。
文章の最後に動詞や、イエスノーがくることもあり、
主張自体もやや弱くも曖昧にもなる。
しかも、周りに合わせるのが美徳とされる社会なので、
自分はどう思っているの??
私は何を感じているの??
なんだか自分でもよく分からないことになりがちなのだ。

ではどうしたら、自分の思っていること、感じていることを、
スマートに伝えることが上手くなるのだろう?
じゃぁ、英語を話せばいいの?ではない。
日本語でも「ある言い方」を習慣にしたらいいのだ。

それは、「私、思うんだけど…」を前置きして始める会話。
まず私という主語をはっきりとさせると、
あなたの(一個人の)考えなのですねと、
相手の心に届きやすくなる。
これは心理学の「Iメッセージ」というテクニック。

反対に「相手の心に届きにくい言い方」は、
「あなた」から始まる「youメッセージ」である。
これは攻撃的な言い方なので、相手に拒絶されやすい。
例えば、「あなたは無神経な人ね」と言うよりは、
「私はあなたにないがしろにされているように思えて悲しい。」
と言われたほうが受け取りやすい。
そして言う側も本心が伝わるものだ。

「私は」の主語の後に、「思うんだけど」を続けると、
自分がいま何を思っているかフォーカスするし、
思ったこと以外は続けられない構文になる。
他にも「私の考えですが…」や、
「私の感じたことですが…」と前置きして会話を始める。
自分が何を思ったり感じているのかイマイチ分からない人にお奨めの習慣です。

去りゆく夏の味

ずんだ餅とズッキーニ餃子の晩御飯、
どちらも母の手作りである。

ずんだ餅とは、小豆の代わりに枝豆を使った「おはぎ」で、
宮城のお土産として有名だ。
一方ズッキーニ餃子は、
お料理名人の友人が教えてくれたレシピで、
ニラやキャベツの代わりにズッキーニを使った餃子である。
挽き肉はほんの少し、ニンニクは入れないアッサリ餃子なのだ。

「変な組み合わせのメニューになっちゃって」と母は言う。
いや、今日みたいな秋空の日にいいんじゃない?
どちらも翡翠(ひすい)色をした、
去りゆく夏の味なのでした。