カテゴリー別アーカイブ: psychology

見ているだけで走った気分になるのはなぜか?

母が先週の名古屋ウイメンズマラソンへ。
もちろん沿道の応援にである。
母は名古屋ウイメンズに毎年出かけているので、
母なりのビューポイントは心得ているようだ。

私は間近に世界トップレベルのマラソンランナーを見たことがない。
母が言うには、
「すごく速い。見てるだけで走った気分」なのだそうだ。
そして、自分が完走してきたかのように、お疲れで帰ってきたのだった。

「Frontiers in Autonomic Neuroscience」に掲載された論文によると、
他の人が運動する様子を見ると、
まるで自分自身が運動をしているかのように、
心拍数などの生理的指標が上昇することが研究で分かっている。

また、感情に関しての調査でも、結果が一致するのだとか。
つまり、感情をかきたてられる映像を見ると、
交感神経活動が刺激されて、発汗が促されることが分かっている。
(フムフムより・これは、テレビやネット画像でも気をつけたいものですね。)

しかし、運動の映像を見たからといって
実際の運動効果に匹敵はしない、とも述べている。
そして「ソファから腰を上げることの健康効果に代わり得るものはない」と。
*以上、「Frontiers in Autonomic Neuroscience」に掲載された論文より

やはり、実際に運動するに越したことはないのね。
運動ができる年代や、動ける身体は本当に貴重なのだ。
さて、ソファから腰をあげて、
サンダーと歩きにいくとしよう。

物事をシンプルにする「お互いオーケー」なアラブの言葉

「イッヒアラー」というアラビアの言葉がある。
神のおぼし召し、という意味ですが、
とても便利な慣用句。
私がエジプトに旅行した時に唯一覚えた言葉です。

たとえばコップを誰かが割ったとしたら、
イッヒアラーと声をかけます。
そのコップは割れる運命だったんだよ、という感じ。
あなたが悪いわけでも、私が悪いわけでもない。
さ、片付けようぜ!みたいな。

これは生活の知恵かもしれないな。
天や運をダシに使って、
「あなたも私も悪くない」にしてしまう。
つまりお互いオーケーになると、
ずいぶんと物事はシンプルになるものなぁ。

驚くべき人

長らく私は「正直さ」を思い違いしていたものでした。
本音トークや、ぶっちゃけ話、
感情をストレートにだす。
何でもあけすけな人が正直なのね、と。
さあ、私もオープンにならなくては!

…それも正直さではあるのだけれど、
もっとなにか違うものがあるのかもしれないなぁ。
そんな風にぼんやりと思っていたのです。

何年も前になりますが、いろんな人が気づきをシェアする集まりやワークに、
参加したり立ち会うことがよくありました。
死や病気、人間関係、事業のことetc.
自らのことだったり、家族や大切な人のことだったり。
皆それぞれの淵に立っていました。

そこで驚くような人が中にいるのですね。
借り物ではない自分の言葉で、
寡黙な人は懸命に、いつもは流ちょうな人も訥々と語ります。

疑いのなかった自分の優しさや正義に裏があったと知ったとか、
不幸な自分に酔っていたことに気づいたとか、
自分のニセモノや嘘っぽさに気づいたと、語る人たち。
肩から荷を下ろしたかのように、これで楽になったと語る人も。

ここで語られる内容は、
巷で言われるポジティブシンキングや、自分さがしとは、
どこか違う質を感じました。

そして驚いたのは、自分の真のニセモノさや嘘っぽさを受け入れた人は、
内面から輝きのようなものが現れてくる、ということ。

後に、自己一致や自己開示など心理学概念を習うことになって、
浮かぶのはあの驚くような人たちの姿なのでした。

「ええカッコしい」は生き延びるため

私が心理カウンセラーを目指すきっかけになったセミナーでの話。
このセミナーはとにかくハード(日数も)。
このプログラムは、アメリカで受刑者の更生に採用されてもいるそうです。
それを後から聞いて、「そりゃハードだったわい」と納得したほどでした。

内容は、心理学の交流分析。
自分のコミュニケーションの癖やパターンから、自分を知るアプローチです。
自分の思い癖や、馴染みの感情や、歪んだ思い込み等々を見つめます。

中でも大変だったのが、このセミナーで「まがいもの」と呼んでいたもの。
ほとんどの参加者はジタバタし、堪らず泣いてしまう人も(フムフム含む)。
それも当然で、生き延びるために身に着けた「ずるいやりかた」を
自分で見つける作業だからです。
生き延びるための「ええカッコしい」。
いい顔(他もあります)する、本物ではない偽物っぽいという意味の関西弁です。

「ええカッコしい」が生き延びるための方策であるとは、こういうことです。
幼い頃は一人では生きてはいけません。
親や、親替わりの人に注目されてケアしてもらわないと、
たちまち死んでしまうからです。
また安全を確保するために、なお気に入られないといけません。

注目されて、気に入られるためには幼子なりに
黙ってみたり騒いでみたり、笑ってみたり泣いてみたり。
元気にしてみたり病気になってみたり。ワガママ言ったりガマンしてみたり。
あの手この手で、親や親代わりの人の気をひく条件をリサーチします。

たとえば、ある子は「いい子」にしていたら気を引けることが分かりました。
またある子は「悪い子」にしていたら効果があることを知ります。
ほんとうの自分がどうであろうが構いません。
だって生き延びるためなんですから。

こうして生き延びるために確立した「ずるい手口」は、
大人になっても知らず知らず続けます。
しかしとても歪んだ「まがいもの」なので、破たんしています。
しかし、それがどんなに自分を苦しめようが、まわりに迷惑かけようが、
手放すほうが怖いのです。
だって、これで生き延びてきた幼い記憶があるのですから。

…と、こんな「まがいもの」を見つけて、
なおかつ手放して(手放し続けて)いくレッスンですから、
そりゃハードです。あえてファシリテーターは挑発したり。
その自分のとっさの反応で気づくことも。

あ、また出てきたなと気づいたら、
まるで玉ねぎの皮を一枚一枚むくように手放します。
つまり、その手口から降りるのです。降りつづけるのです。

すると、いつしか自分が投影していた現実が変わっていくことに気づきます。
ああ、ええカッコしいの私でなく、「ただの私」でいいのだ…。
こうして本当の自分を愛することができるのです。

3月26日 日本カウンセラー学院名古屋サテライト校 開講のお知らせ

カウンセラーのトレーニングを受けてつくづく思うのは、
カウンセラーってBuddy(バディ)に似ているなぁ…ということです。
バディとは、スキューバダイビングの用語で、
二人で協力して海に潜るパートナーシップのこと。
そしてその相棒を指します。

カウンセリングでは、クライエントさんがご自身の心の奥深くを見つめます。
それは海を深く潜っていくようなものです。
カウンセラーは一緒に潜るバディ、パートナーです。

クライエントさんがどこまで深く潜っていけるのかは、
じつはバディによるところが大きいのです。
バディであるカウンセラー自身が、自分の心の奥深くに潜った経験がないと、
クライエントさんは無意識にその先に進むことを止めてしまいます。

またカウンセラーは、心の奥深くに潜る怖さや大変さも
見にしみている必要もあるのです。

…と、こんな風に常々おっしゃっているのが、
私のカウンセリングの恩師である内海早織先生です。
内海先生は作業療法士として、心と身体に障害をお持ちの方と向きあわれている
現役の医療従事者でもいらっしゃいます。養成もされていました。
また、福祉においても専門歴をお持ちです。

こうも言います。
心理カウンセラーの大切な在り方は、
「なによりまず自分の中を奥深く見る覚悟」
覚悟という表現には、それに対する敬意や畏怖がベースにあると感じます。

さて、私が信頼を寄せる内海早織先生が講師を担当されます
心理カウンセラー養成校の春季クラスが、3月26日(土)から開講します。
ただいま受講生の申し込みを受け付けているそうです。
この日本カウンセラー学院名古屋校(現・名古屋サテライト校)は、私の母校です。

内海先生が担当されるクラスが開催される場所は、
名古屋駅からはほど近く、
そして桜通線「国際センター」駅の出口を出て横を向いて10歩、
先生が開業されているカウンセリングルームが入っているビルの一室になります。

心理カウンセラーを目指したい方、
自分の心を見つめたい方に、おすすめいたします。

詳細はこちらのサイトをご覧ください
名古屋サテライト校│
心理カウンセラー養成・資格取得スクール 日本カウンセラー学院

http://www.therapy.jp/gakuin/campus/detail-nagoya/

内海早織先生のカウンセリングルームHP
ピースフルマインド・オーシャン

http://peaceful-mind-ocean.com/top

自分の中の「いちばん身近なパートナーシップ」 「責任をとる」ってどういうこと?④

すべての現象は、自分のなかの「何か」が投影している。
さて、「何か」って何?
自分の思い癖や、自分を苦しめるなじみの感情や
先入観や、自分で作った人生のシナリオ等々です。

この「何か」の原因が存在します。
それは、トラウマやカルマなどと呼ばれているものです。
ギスギスした世の中だなと刷り込まれた原因は何か?どんなトラウマがあったのか?
じつは、この原因さがしには果てがありません。

私がいろいろなセラピーやヒーリングを体験していた三十代の頃、
あることに気がつきました。
トラウマやカルマ、癒されていない前世さがしオンリーで解決しようとすると、
再び「無力な自分」に戻ってきてしまうのです。

トラウマやカルマなど、根本的な記憶はすべて、
内なる子ども(潜在意識・インナーチャイルド)が所蔵しています。
それは現生だけでなく、いくつも生まれ変わってきた過去生、
動物だった頃や、植物や鉱物だった意識さえもデータを蓄えていると言います。
…気の遠くなりそうなお話ですね。

ちなみに、顕在意識の私たちが把握できるデータ量は、
潜在意識の内なる子どもが把握している量の、
何万分の一にすぎないと言われています。(諸説あります)
そんな私たちが、電車で遭遇したケンカの原因である、
トラウマやカルマや記憶を「これです」と特定することは難しい。

知っているのは内なる子どもであって、
私たちが知っているのは、
「ケンカが起きた事」と、
「ギスギスした世の中だと思った」という事実だけ。
そして私たちができることは、
「ギスギスした世の中だ」という思い込みを手放すこと。
(もちろん、ケンカがおきた事自体は変えることはできません。)

大切なことは、互いの役割を知ることです。
原因は内なる子どもが知っていますから、信頼してまかせましょう。
内なる子どもが望んでいるのは「一緒に手放してほしい」なのです。

私たちの役割は、
内なる子どもが見せてくれたことに感謝して、手放すこと。
この、自分の中のいちばん身近なパートナーシップを忘れない。
これが「責任をとる」ということなのです。

(おわり)

なぜ投影に気づくと人はイキイキしていくのか 「責任をとる」ってどういうこと?③

すべて起きる出来事は、自分のなかの投影である。
これは一見、とても厳しいことのように思えます。
自分のことならまだしも、他人のことまで「自分発」だなんて…。

しかし、すべては自分の投影であると気づいた人は、
不思議なことにイキイキしていくのです。

ではなぜ投影に気づくと人はイキイキしていくのでしょう。
他人のせいや世の中のせいにしているのは楽なことに思えます。
しかし、他人のせいや世の中のせいと、自分の外に責任を与えていると、
「自分は無力である」という思いを無意識に持ちます。
他人のせいにすればするほど、「無力な自分」が強くなっていくのです。

反対に、「自分の投影だ」と気づくと、
自然に相手が変わっていたり、環境が改善していったり。
あれれ?なんだこれは?
この経験で「無力な自分」の意識が外れます。
「無力な自分」という思い込み(思い込まされ)って、
人から生命力を奪ってしまうものかもしれませんね。

私(フムフム)が関わっていた気の療法は、
この気づきがまず大切であるとしていました。
実際、いろんな出来事は自分の投影だったと気がついたそれだけで、
その人の現実の状況が変わってしまった、
また、その経験が、無力な自分を脱して生命力を取り戻していったという、
そんなケースに出会ったものでした。
気づきってそれほどパワフルなんですね。

一見、楽そうに思える「人のせい」にするのと、
厳しそうに思える「自分の投影に気づく」こと、
楽なのはどちらなのでしょう。
これはパラドックスですね。

(続きます)

おきることは「自分の投影」 「責任をとる」ってどういうこと?②

心理学やスピリチュアルで使われる言葉、
「責任をとる」とは本来どういうことなのでしょう?
そして、何に対して「責任をとる」のでしょう?

それでは、こんな場面にあなたが遭遇したとしましょう。
あなたがたまたま乗り合わせた電車の車中で、
見知らぬ乗客どうしがケンカをはじめました。
あなたはどう思うでしょう?

「嫌だな。こんな状況に出くわして、なんて私は運が悪いんでしょう」
「これは、ギスギスした世の中の縮図だ」
「怖い。やっぱりキレる大人が多いのは本当だったんだ」
「程度の低い人たちだな。(私は違うけど)」
「どっちも悪いよ。」
私たちはつい、こんな風に相手をジャッジします。
「自分とは関係がない」という立場にいます。

しかし心理学やスピリチュアルでは、
「自分とおおいに関係がある」ととらえます。
「すべて起きる出来事は、自分の中からの投影である」と見るのです。

投影とは、あたかもスクリーンのように、まるで鏡のように
自分の中の「何か」が、現実となって映し出すことです。
たとえば先ほどあげたジャッジは、
自分が気づいていない「思い癖」かもしれません。
振り返ると、いつも繰り返されている出来事かもしれません。

「世の中ぎすぎすしている」と思っているとしたら、
「やっぱりそうだ」と確認させる現実が、
「お呼びですかー?」とやってくるという考え方です。
先にあげた例では、電車のケンカの場面として現れたということですね。

「この状況は、私のなかの何がそうさせたのだろう?
これは私に何を知らせているのだろう?」と
自分のことでもある、という立場をもつ。
これが「責任をとる」スタートです。

ちなみに、きちんとトレーニングを受けたセラピストやヒーラーであれば、
いま自分の内側で起きていることを観察することが身についています。
気づいていない自分の思い癖や、繰り返されるパターンを見ようとするのです。
これに気づかないままでは、クライエントさんに自覚なく投影してしまいます

こんな自分がいたなんて知らなかったよ。
「見せてくれてありがとう」です。
見せてくれたのは内なる子ども(潜在意識・インナーチャイルド)です。
(続きます)

「責任をとる」ってどういうこと?①

私は25年ほど様々な心理学やスピリチュアルのセミナーに参加してきたのですが、
ある言い回しが頻繁に出てきては、心のなかでひっかかりを感じたものでした。
それは、「責任をとる」という言い回し。

海外発メソッドでは、責任という言葉をあてはめざる得ないのかもしれませんが、
日本語の「責任をとる」にネガティブなイメージを私は抱いていたのです。
あなたが悪い
さあ、責任をとってください、という感じで。
過失や落ち度を認める(させる)ようで、どこかみじめで痛々しい。
自分で勝手にそんな意味づけをくっつけては、心の扉がピシャと閉じるように、
その抵抗感で先の理解が進まなかったのです。

しかし、ある視点をを意識してからは、
スッと心に入ってくるようになったことを憶えています。
ああ、責任をとるとはこういうことなのか…。
そんな私の経験を交えて書いていきましょう。

さて、心理学やスピリチュアルで登場するこのフレーズ、
「責任をとる」とは、いったいどんな意味なのでしょう?
何に対して「責任をとる」のでしょう?

(続きます)

鬼に投げキッス

節分や昔話では悪役の鬼。
私はどうも鬼という存在に哀愁を感じてしまう。
豆で追われた鬼はどこいくんだろ?
小さい頃にぼんやりと考えたこともあったっけ。

ずいぶん前に奈良県の天川村にある天河神社を訪れたとき、
柿坂神酒之助(みきのすけ)宮司にこんな話をうかがいました。

天河神社では節分の豆まきは、
「福は内、鬼も内」というのが古くからの習わしなのだそう。
この日、宮司さんのお宅では、お湯を張った盥(たらい)と、
お布団を一式ご用意しておく。
追われて行き場のない鬼の宿というわけ。
盥のお湯は、足裏を濯いで寛いでね、という心遣いから。
そして翌朝、盥の水は量が減っていて、
盥の底に数粒の砂が沈んでいるのだとか。
お布団にもへこみがあって、
つまり、鬼が足を洗って布団で休んだ形跡があるんですって。
へぇえ~!(ちょっとコワイ)
…なんだか懐が広いなぁ。
鬼というのは自分の投影でもあるんだよ。
そんな意味のことも宮司さんはおっしゃっていた。

自分のなかの「鬼」を追い出したり否定したり無いことにしたり。
なくそうとすると継続して、
抑え込むと暴発したり、
無くなったと思ったらゾンビのように蘇って。
これはまさに鬼というに相応しいなぁ…。

しかし案外、豆投げて追い出すよりも、
盥の湯とお布団ご用意してしまうくらいの逆転の発想が、
心理学やスピリチュアルでも正解だったりします。

心の鬼は、いわば愛情と認知の飢餓状態。
あなたの存在を認めます。愛しています。
すると鬼の存在理由がなくなって、手放すことができるということ。
…愛して認める、これができれば苦労しないのですがね。

こんな時、スピリチュアルな精神科医で有名な越智啓子先生なら、
きっとこう言うでしょう。
鬼に豆を投げるのではなく、
投げキッスをするのよ!